東尋坊で身投げする
2020年3月初旬は土曜日の昼下がり。暖冬を越え春へ向かう東尋坊には生温い風が吹く。日差しがかろうじて遮られる程度に薄い雲が広がり、荒れ狂うこと無く波を立てる日本海と遠くでかすかな水平線を作る。背中には多からずも少なからずの生きた観光客。岩場を飛び跳ねる中高生らしき男子グループ。自撮り棒で二人の思い出を写すカップル。子供の手を引き崖の先へと歩を進めるお父さん。1歩後ろで見守るお母さん。一眼カメラで互いの記念写真を撮り合う老夫婦。
私は一人崖ふちに足を投げて座り、小一時間景色を眺めていた。
率直に、想像してたのと違うな、と思った。いや「自殺」「名所」という単語のイメージくらいしか正味知らなかったにも関わらず、事前に詳しく調べるなりググるなりをせず突発的な行動に移したのが悪い。勝手な想像をしていた自分が悪い。勝手に死への近さやら寒空やら荒れた日本海やらを想像していた自分が悪い。
実際に見た東尋坊は単なる観光所に他なくて、ほどほどに人がいて、自分の中の孤独感に浸りに来たのはどうやら私ただひとりのようで。しかしながら各集団の楽しげな声を背に海を見ればこれはこれで孤独感を感じる。世界は私と関係なく動いていて、楽しげである。
死ぬ気なんてない。生きてはいたい。楽しくないわけではない。かといって動いている世界の人間達ほど楽しくはしていない。それもこれも自分がぼんやりと歩んできた結果なのだけれど。
目線を下ろせば崖下20mで日本海の荒波にえぐられた岩場が待ち構え。両手を岩に添え前へ蹴り出せばすぐにでも身を投げ出せるが、身投げする程思い詰めてるということじゃない。仮にいざその時が来たとて身投げする勇気も行動力もないとも思うし、そもそもその時は永遠に訪れない。
ただただ自分はこれからもぼんやりと生きていくだろうし、ぼんやりと一人歩き続けると思う。ぼんやりと考えながらぼんやりとした景色をぼんやりと眺める。
宿屋で早目の夕食を終え、浴衣から再び洋服に着替える。
ぼんやりとした街灯を通り抜け、ぼんやりとした楽しみを求めて歩く。